パッテンライ(八田來了)
ㄧ個震撼亞洲ㄉ百年水壩
ㄧ段淒美的真情故事/嘉南大圳之父
1945年8月,第二次世界大戰終了。那年9月1日的清晨,一位身穿和服的中年女子(妻:外代樹)在烏山頭水庫的出水口處投水自盡,為的是她難割捨ㄉ已逝丈夫八田與一.......。
1945年8月,第二世界大戦終了。終戦直後の9月に、一人着物を着ている中年女(八田の愛妻:外代樹)が烏山頭ダムの放水路に身を投げ、夫八田與一と参戦に帰ってこない次男のあとを追った、、、、。
外代樹は夫が心血を注いだ烏山頭ダムの放水口の 身を投げて後を追ったのでした。
享年46歳であった云います。遺書には「みあと慕いて我も行くなり」とありました
外代樹は明治三十四(1901)年三月七日、米村吉太郎、こと夫妻の長女として生まれている。翌年、小村家(母方の実家)と養子縁組し、小村外代樹となった。石川県立高等女学校を卒業後、大正六(1917)年八月、十六歳の時八田與一と結婚、台湾へ渡る。夫、與一との間に二男六女をもうけた。
外代樹生於1901年、為米村吉家長女。隔年母親娘家認養為養女、改名小村外代樹。外代樹從高等女校畢業後、16歲與八田結婚隨夫婿來臺灣、共育有兩男六女。
全家照
八田さんは日本統治時代に、台湾の不毛の地を劇的に変えるため、当時の世界一となる巨大なダム開発を指揮した水利技術者。彼が存在しなかったら、現在の台湾も存在していなかったかもしれません。それほど偉大な事を成し遂げ、台湾の方々に愛された方です。感動作です。是非見て下さい。
片名:【八田與一Pattenrai】
監製:石黒 昇
演唱:一青 窈
製作公司:「八田來了!!」製作委員會、日本「北國新聞社」、手塚治虫設立的「虫製作公司」
台灣發行:華映娛樂股份有限公司
映画について(關於電影)
日據時代日本政府為了建設台灣,於是從日本本土挑選各專門領域的優秀人才來到台灣。而其中一位即是八田與一。八田與一生於日本石川縣金澤市。從舊制第四高等學校,東京大學土木學系畢業之後,旋即受聘為台灣總督府內務局土木課技師(技術人員之意)。從28歲到56歲過世為止一直住在台灣,為發展台灣的水利事業而鞠躬盡瘁。1920年八田與一所領導的團隊費時10年,完成了亞洲最大的水利工程烏山頭水庫,並一口氣將原為荒蕪的嘉南平原,改良成暫全台灣百分之四十的農地的大穀倉。不論是日本人還是台灣人都一視同仁,在工程現場總是身先士卒的八田,卻死於戰爭中,其妻外代樹女士亦隨夫投水自盡於烏山頭水庫。
「パッテンライ」とは台湾語で「八田がやって来た」の意。物語は全編アニメーション。舞台は80年前の日本統治下、台湾南部の嘉南平原。当時、嘉南平原は不毛の大地と呼ばれており、そこにダムをつくり、農業水路を張り巡らせて一大穀倉地帯に変えた大土木工事である。
「パッテンライ」為台語『八田來了』發音.是ㄧ篇動畫卡通.以80年前日本殖民時代的台南嘉南平原為故事背景.當時八田與ㄧ先生建造水壩將原為荒蕪的嘉南平原改良成全農地的大穀倉.
物語は、実在の人物・八田與一と八田技師にあこがれて土木を志す台湾人少年と飛行機乗りを夢みる日本人少年が、大土木事業に真正面から立ち向かう大人たちの姿に影響されながら成長していく姿を描いている。
故事描繪真實人物八田與ㄧ,崇拜八田且立志從事土木工程的台灣少年,和夢想當飛行員的日本少年他們在面臨土木事業受阻的過程.
また、工事の信憑性を疑い嘲笑する地域農民たちを説得しながら難工事に挑む姿、夫を支え、やさしく見守る妻外代樹なども描かれている。(以及描繪說服農民對工程懷疑,和ㄧ直體貼守護八田先生的妻子外代樹)
総督府から技師として派遣された24歳の八田與一は、この地に広大な灌漑施設を造るという計画を立てる。その信憑性を疑う地元の農民たちは八田に対して敵意を抱く。その中に農民の子、英哲もいた。英哲は八田の土木にかける切実な想いに動かされ、次第にダムの必要性を理解し、自らも土木技師になる夢を抱くようになる。現場の近くの宿舎に移り住んだ日本人作業員の家族の中に、ススムという少年がいた。ススムの夢は飛行機乗りである。英哲と意気投合した二人は、互いの夢を語り合う。そんなある日、トンネル工事中の爆発事故により、五十余名が殉職していまう。被害者の中にススムの父親もいた。工事の中止が囁かれ、八田は苦悩に陥る・
總督府派24歲ㄉ技師八田與ㄧ到台灣西南部的嘉南平原。八田與一為了能得到建設灌溉工程的土地,而來到住在當地農民之子添文的家。起初一句日語也不會說的添文,對於從日本派來的水利技師八田與一抱著敵視的態度。可是當瞭解到灌溉工程的重要性以及八田對事業的熱情之後,添文也希望有朝一日能成為土木工程師。在此時,日本小孩進一的父親辭去營林署的工作而來到八田與一這裡服務,有著同樣夢想的添文與進一,於是成為志同道合的好友。某日突然發生爆炸意外,為數眾多的工人因而喪生,其中進一的父親也在其中。在一片愁雲慘霧之中,為了不使往生者的性命白白犧牲,八田與一矢志要完成這個重要的水利工程。
ダムの完成を待たずに亡くなった従事者達の殉工碑(尚未等到大壩完工不幸殉職的從業人員殉工碑)
八田與一が犠牲者のために建てた殉工碑には今でも、日本人、台湾人の区別なく、死亡順に名前が刻まれている。(八田為殉職人員建的殉工碑、不分日本人台灣人、依照殉職先後刻名悼念)
八田與ㄧ於1942.5.8フィリピィに向かう途中、アメリアの潜水艦の攻撃を受け、東シナ海で死亡した。
1942.5.8八田與ㄧ啓程菲律賓途中,於東海遭美軍潛艇攻擊不幸罹難
銅像と夫妻の墓があります
台湾を愛し、台湾に愛された男。八田の命日には現在の人の手によって、今もなお墓前祭が行われている。
愛台灣、也深受台灣人愛戴的八田。直到今日每逢他的忌日、台灣人都會到他的墓前進行追悼
台湾の歴史教科書にも載るほど有名な日本人八田與一。
台灣的國中歷史課本也介紹八田為台灣所做的貢獻。
参考文書:日台の架け橋、百年ダムを作った男/斉藤充功/時事通信社